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東京高等裁判所 昭和58年(行ケ)142号 判決

主文

一  特許庁が昭和五二年審判第一〇五三二号事件について昭和五八年二月三日にした審決を取消す。

二  訴訟費用は被告の負担とする。

事実

第一  当事者双方の求めた裁判

原告は主文同旨の判決を求め、被告は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。

第二  請求の原因

一  特許庁における手続の経緯

原告は、昭和四八年六月一九日、名称を「トリグリセリドの測定法」とする発明(以下「本願発明」という。)につき、一九七二年六月一九日にドイツ連邦共和国においてした特許出願に基づく優先権を主張して特許出願をしたところ、昭和五二年四月五日、拒絶査定を受けたので、同年八月一二日これに対する審判請求をした。特許庁は右請求を昭和五二年審判第一〇五三二号事件として審理し、昭和五八年二月三日「本件審判の請求は成り立たない。」(出訴期間として九〇日を附加)との審決をし、その謄本は、同年四月二七日、原告に送達された。

二  本願発明の特許請求の範囲

リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離するグリセリンの測定によってトリグリセリドを測定する場合に、鹸化をカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数一〇~一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩の存在で実施することを特徴とするトリグリセリドの測定法。

三  審決の理由の要点

1  本願発明の要旨は前項記載のとおりである。

2  一九六六年一二月五日東京化学同人発行丹羽外二名編「臨床化学分析Ⅲ」第一版第一刷四〇頁ないし五六頁(第一引用例)には、大部分がトリグリセリドからなる中性脂肪をエタノール性水酸化カリウムにより鹸化してグリセリンを遊離させ、それを定量することにより中性脂肪を測定することが記載され、昭和四一年四月三〇日朝倉書店発行赤堀四郎監修「酵素ハンドブック」四〇〇頁ないし四〇一頁、四〇三頁ないし四〇五頁(第二引用例)には、(イ)リパーゼがトリグリセリドを加水分解すること、(ロ)この酵素はエステルとの境界面に作用し、境界面の増加によって一層多くの酵素が水層から放出されること及び(ハ)カルボキシルエステラーゼもトリグリセリドを加水分解することが記載され、昭和三一年五月三〇日同書店発行同人編「酵素研究法」二巻一頁ないし五頁(第三引用例)には、カルボキシルエステラーゼは脂肪(トリグリセリド)を分解し得るもので、リパーゼと画然と区別し得るものでないこと及び分解作用の測定に当たっては脂肪酵素の基質の多くは水に不溶性であるために乳化が必要であって、エマルジョンの状態とし測定を行い、その際オレイン酸ソーダなどを安定剤として使用することが記載され、昭和四五年七月一五日発行の前記「酵素研究法」四巻六三七頁(第四引用例)には、高級脂肪酸のグリセリンエステル、すなわち脂肪や油脂のエステル分解に働くリパーゼと低級脂肪酸と脂肪族低級アルコールとのエステルの分解に働く非特異性エステラーゼとは画然と区別できるものではなく、非特異的エステラーゼもある程度脂肪を分解し、また、リパーゼも低級脂肪酸エステルを分解し得、化学的にも細部にわたって両者を区別できるものではなく、本質的な差異はないことが記載され、Bulletin de la societe de Chemie Biologipue四八巻(一九六六年発行)六巻七四七頁ないし七七〇頁(第五引用例)には、(イ)リパーゼとしてリゾプス・アルヒズスからのリパーゼがあること及び(ロ)これを使用する際その活性化のためにラウリル硫酸塩を使用することが記載され、昭和三八年七月一日共立出版株式会社発行「化学大辞典」一巻三八九頁ないし三九〇頁(第六引用例)には、アルキル硫酸塩は陰イオン表面活性剤の一種であり、浸透剤などに使用されることが記載されている。

3  本願発明はトリグリセリドを鹸化し、遊離するグリセリンを定量することにより、トリグリセリドを測定する方法に係るものであるが、本願明細書によると、公知方法にアルコール性アルカリでトリグリセリドを鹸化する方法があり、このアルカリを用いる方法の問題点はリパーゼを使用する一公知方法で除去されたけれども、この方法は酵素を多量に必要とするなどの欠点があるので、更にその欠点を解消するために本願発明は鹸化をリパーゼに加えてカルボキシエステラーゼ及びアルキル硫酸塩の存在で行ったものである、と記載されている。

4(一)  トリグリセリドをアルコール性アルカリで鹸化してグリセリンを遊離し、それを測定することによりトリグリセリドを測定することは第一引用例により公知である。

(二)  トリグリセリドを加水分解(鹸化)する物質としてリパーゼがあることは、第二引用例に示されるようによく知られているから第一引用例にあるトリグリセリドの測定法においてアルコール性アルカリの代りにリパーゼを用いることは直ちになし得るものである。しかも、そのような加水分解作用を有するリパーゼとしてリゾプス・アルヒズスのリパーゼがあることは第五引用例に示されているから、リパーゼとしてこの酵素を用いることができることは明らかである。

5  そして、このリパーゼを用いる鹸化においては、酵素を用いるために反応条件がアルコール性アルカリを用いる場合とは異なった条件になることは明らかであるが、この場合酵素反応特有の酵素が活性化し得る条件でなければならないことは技術常識に属するところである。

6  その条件についてみると、リパーゼを用いる際には、これはエステルと水との界面において作用するもので、境界面の増加によって作用が増大すること(第二引用例四〇三頁)及び反応上基質を乳化することが必要であって、安定剤としてオレイン酸ソーダなどを用いること(第三引用例四~五頁)が知られ、また、リゾプス・アルヒズスからのリパーゼを用いる際には、その活性化のためにラウリル硫酸塩を用いること(第五引用例七六二頁)が知られているから、リパーゼを用いる鹸化において界面反応を助長するためにラウリル硫酸塩のような界面活性剤を用いることは、温度、pHの条件とともに当然考慮される程度のものにすぎない。しかも、この界面反応を助長するためにはラウリル硫酸塩に限らず、第六引用例に示されるアルキル硫酸塩の各種が使用し得るものであることは明らかである。

7  そうすると、本願発明が改良しようとする従来技術に対し、その相違点の一つに挙げているアルキル硫酸塩を用いる点は、前提とするリパーゼ鹸化による従来技術において特異な手段とはいえないから、それと実質的に相違するところはカルボキシルエステラーゼをさらに併用した点にあるが、カルボキシルエステラーゼも脂肪、すなわちトリグリセライドを加水分解するもので、リパーゼと画然と区別し得るものでないことは、第三及び第四引用例に示されるようによく知られているから、カルボキシルエステラーゼを界面活性剤の使用を伴うリパーゼと併用することは適宜なし得るものであって、この点に格別の困難性はない。

そして、本願発明の実施例にみられるようにリパーゼに対してカルボキシルエステラーゼを多量に使用すれば、それに相応した分だけリパーゼの使用量が少なくすむことは当然のことであり、また、界面活性剤がリゾプス・アルヒズスからのリパーゼを活性化することが知られている(第五引用例)ように、アルキル硫酸塩のような界面活性剤を使用すれば酵素反応が活発に行われ、その結果反応時間が短縮されることは明らかなことであるから、本願発明は予期し得る程度のものにすぎない。

8  したがって、本願発明は第一ないし第六引用例に記載された発明に基づいて当業者が容易に発明することができたものと認められるので、特許法二九条二項により特許を受けることができない。

9  なお、請求人は、意見書でリパーゼとカルボキシルエステラーゼとを併用することは容易であるとしても、アルキル硫酸塩をも含有する三成分を使用することは容易ではないと述べているが、この論点に立ってみても、水に溶解しないトリグリセリドを基質とするとき、界面活性剤を用いる必要があり、反応をエマルジョンの形で行うことが前述のようによく知られている以上、前記両酵素を併用するに当たってアルキル硫酸塩を使用することにはなんらの困難性は認められず、また、請求人が比較すべきという実験二は、前記公知事実を参照すれば、技術常識上当然採られる界面活性剤の使用をあえてしていない場合の例であるから、これを比較の基準とすることはできない。

四  審決を取消すべき事由

審決の理由の要点1は否認する。同2のうち第一、第三及び第四引用例、第五引用例の(イ)、第六引用例の記載内容は認め、その余は争う。同3は認める。同4の(一)は認め、同(二)は争う。同5は認める。同6ないし9は否認する。審決は本願発明の要旨の解釈を誤り、第二及び第五引用例を誤認し、本願発明の顕著な効果を看過し、その進歩性を否定したものであるから、取消されるべきである。

1  本願発明の特徴

本願発明は、リゾプス・アルヒズス(リゾプス・アリツスと同義語)からのリパーゼ(以下「Raリパーゼ」という。)を使用してトリグリセリドを測定する方法に関する原告出願の発明(特願昭四五―一三〇七八八号)(以下「基本発明」という。)の改良発明であり、トリグリセリドをRaリパーゼのみ、カルボキシルエステラーゼのみ、或はアルキル硫酸塩のみを用いて測定するのではなく、これら三者を同時に用いることによって、後記6に述べるような顕著な効果を得ることに成功したのである。特にカルボキシルエステラーゼの分解特性はRaリパーゼに比し著しく劣ることが知られていたのに、右両者及びアルキル硫酸塩を併用したところ、意外にも分解活性がRaリパーゼ自体のそれよりも飛躍的に増大し、その結果すぐれた効果を得ることができたのである。

2  本願発明の要旨の解釈の誤り(取消事由(1))

本願発明の特許請求の範囲の記載によれば、「リパーゼ」について何らの限定も付されていないが、本願明細書の発明の詳細な説明の項の全記載を総合的、合理的に検討する限り、「リパーゼ」とはRaリパーゼの意に限定して解釈するのが相当である。

(一) 本願発明はリゾプス・アリツスからのリパーゼを使用するこの基本発明をそのまま承継するとともに、これにカルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数一〇~一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩を併用することにより、基本発明の有する欠点即ち、トリグリセリドの測定に要する時間を著しく短くし、同時に高価な酵素であるRaリパーゼの使用量を著しく減少させることによって製作コストの軽減に成功したものである。この事実は本願明細書の全記載特に二頁一行ないし五頁一〇行までの記載及び実施例の全部がRaリパーゼを限定使用していることからたやすく理解できるところである。なお、四頁一四行、一七行及び五頁六行にはそれぞれ「リパーゼ」なる語が見えているが、これらの語は、本願発明がRaリパーゼを用いて脂肪分を分解することを発明の要旨とする前記基本発明を改良したものであるとの記載を受けた上で用いられている用語である点で、「Raリパーゼ」を指すことは疑問の余地がないところである。蓋し、もしこの語が「Raリパーゼ」以外のリパーゼをも含む広い概念のものであるとすれば、かかるリパーゼを用いることは、本願発明の前記目的に背馳することになり不合理だからである。

なお、本願明細書三頁一〇行記載の「一公知方法」とは「原告内部において知られていた」という意味であり、具体的には基本発明を指すのである。

(二) 第二引用例の「常用名Lipase」(四〇三頁二行)には「動物組織(特に膵臓)、植物種子(特にヒマシ)、酵母、糸状菌などにある」と記載があるにすぎず(同頁一四行)、第三引用例記載のリパーゼはすべて動物性リパーゼであり、いずれにもRaリパーゼに関する記載はない。また、第四引用例には単にリパーゼと記載されているだけで、これにRaリパーゼが含まれるか否かは明らかでない。また、第五引用例にはRaリパーゼについての記載はあるが、その内容は同リパーゼの酵素としての作用についての研究を課題とした論文であって、トリグリセリドの全酵素的、定量的測定方法に係る論文ではない。また、その実験例においてはRaリパーゼが各基質をモノグリセリドまで分解することが記載されているにすぎない。

(三) このようにリパーゼに関する第二ないし第五引用例にはRaリパーゼを用いてトリグリセリドを鹸化しグリセリンまで遊離することに関する記載は全くない。審決は第一、第二引用例から本願発明中の「リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離するグリセリンの測定によってトリグリセリドを測定する」構成(以下「基本構成」という。)は直ちになし得るところであり(理由の要点4(一))、第五引用例により基本構成におけるリパーゼとしてRaリパーゼを用いることができることは明らかであるとしているが(同4(二))、右判断は誤りである。したがって、本願発明はその基本構成において進歩性を有するのであり、この点を否定した審決は取消を免れない。

(四) なお、本願の基本発明である特願昭四五―一三〇七八八号の特許請求の範囲、即ち「溶液、殊に体液中のリポ蛋白質に結合して存在するトリグリセリド及び又は蛋白質不含の中性脂肪を全酵素的かつ定量的に検出するに当たり、リポ蛋白質及び蛋白質不含の中性脂肪をリゾプス・アルヒズスから得られるリパーゼを用いて分解し、かつ、分解生成物として得られるグリセリンを自体公知の方法で酵素的に測定することを特徴とするトリグリセリドの定量的検出法」との記載は、本願発明の特許請求の範囲中の基本構成の記載をRaリパーゼに限定する限り、これと技術的には同一である。右基本発明の出願に対する拒絶査定を維持した審決は、昭和五八年七月二八日言渡の東京高等裁判所昭和五六年(行ケ)第一一六号審決取消請求事件の判決(確定)により取消された。特許庁は右出願につき昭和五九年四月一〇日出願公告をし、これに対し異議申立がなかったので、昭和五九年一二月二〇日、原査定を取消し特許すべき旨の審決をした。その後基本発明の特許権は登録された。

(以下の主張は、右のような要旨誤認がないとした場合の仮定主張である。)

3  トリグリセリドの測定法にリパーゼを採用することの推考容易性について(取消事由(2))

審決は第二引用例の(イ)の記載を引用して、「第一引用例にあるトリグリセリドの測定法において、アルコール性アルカリの代りにリパーゼを用いることは直ちになしうるところである。」と判断する(理由の要点4)。

(一) しかし、第二引用例にはリパーゼがトリグリセリドをグリセリンまで鹸化するとの記載はない。

(二) 第二引用例の四〇三頁には脂肪酸による測定の記載しかなく、グリセリンの全酵素法による測定方法に関する記載はない。脂肪酸によるトリグリセリドの定量と本願発明の定量とは本質的に異なる技術に属し、両者間にはなんらの相関関係もない。

(三) 被告の指摘に係る同引用例の四〇四頁に記載されているトリグリセリドは本来リパーゼ活性を測定するためのものである。そのトリグリセリドは公知の素性のわかった例えばトリオレイルやオリーブ油のような単一のトリグリセリドにすぎず、血液中のトリグリセリドのような各種の脂肪酸を結合した水溶性のトリグリセリドではない。それ故、右に記載された技術から本願発明が可能としたような血液中のトリグリセリドの測定を容易に予期できるものではない。そのうえ、同引用例には動物生体中に存在する動物性のプロテインリパーゼが説明されているが、右のリパーゼは極めて不安定で多数の蛋白質を含有しており、実用的な定量に使用することはできないのである。

(四) このように本願出願当時リパーゼによるトリグリセリド測定法は公知ではなかったのであるから、審決の前記判断は誤りである。

4  アルキル硫酸塩使用の推考容易性について(取消事由(3))

審決は第二引用例中の(ロ)の記載及び第五引用例の記載から、「リパーゼを用いる鹸化について界面反応を助長するためにラウリル硫酸塩のような界面活性を用いることは……当然考慮される程度のものにすぎない」と判断している(理由の要点6)。

(一) しかし、第二引用例にはトリグリセリドエマルジョンの鹸化について「境界面の増加によって一層多くの酵素が水層から放出される。しかしlipase全分子の能力以上に境界面を拡げても効果はない。ある種表面活性剤は(濃度にもよるが)境界面から基質を分散させてしまうので、lipase活性を低下させることがある」と記載されており(四〇三頁三一行ないし三四行)、この記載は界面活性剤ならなんでもリパーゼを活性化するものでないことを示している。このことは第六引用例の記載によっても左右されるものではない。蓋し、同引用例には「陰イオン表面活性剤の一種」と記載されているだけであって、これに属する各種の表面活性剤が果たしてラウリル酸同様リパーゼの界面活性を助長させるのか低下させるのかについての記載は全く見られないからである。

(二) また、第五引用例には「ラウリル塩酸エステルナトリウム塩は一〇〇μg/mlの濃度で活性は僅か(一一%)であり、pH7.4~7.6では一mg/mlの濃度では抑制を起こす(七〇%抑制)。」と記載されているから(訳文一〇頁七行ないし一一行)、ラウリル硫酸塩を用いてもRaリパーゼが常に活性を示すとは限らないのである。

第五引用例にはRaリパーゼをトリオレイン、オリーブ油、天然グリセリド、馬血清リポプロテインその他の基質に対して作用させた実験例が開示されているが、同引用例はRaリパーゼという酵素の作用についての研究を課題とした論文であって、トリグリセリドの全酵素的かつ定量的測定方法に係るものではないから、そこに示された実験例においては、Raリパーゼが各基質をモノグリセリドまで分解する事実を解明すれば研究目的を達成し、それ以上に遊離グリセリンまで分解する必要はないのであり、同引用例にはそのような記載があるということはできないのである。そうであれば、同引用例中のラウリル硫酸塩のRaリパーゼの活性化作用に対する「抑制率」もトリグリセリドをモノグリセリドまで分解する過程における抑制率を指すものにすぎず、トリグリセリドをグリセリンまで分解した上での「再検出率」又は「活性化」率を問題とする本願発明とは無関係の記載であるというべきである。

(三) このように、第二引用例を見た当業者は表面活性剤ならなんでもリパーゼの活性を促進するものとは限らないし、後に述べるカルボキシルエステラーゼのようなトリグリセリド分解能力のない酵素をリパーゼに代えて使用した場合の表面活性については全く想像すらできない状態であると考えていたものである。また、第五引用例におけるラウリル硫酸塩がRaリパーゼによる遊離グリセリンの検出に用いられていないところから、第二引用例でリパーゼの遊離グリセリン検出におけるリパーゼ活性化のために用いられる表面活性剤の中には第五引用例のラウリル硫酸塩が含まれるか否かについて当業者は疑問を持ったに違いない。

(四) しかも、第二及び第五引用例の各記載は、トリグリセリドエマルジョンの鹸化に関する記述であるところ、本願発明はエマルジョン状のトリグリセリドのみならず溶解したトリグリセリドの測定をもその内容とするものであって、その鹸化に際し界面活性剤を使用すれば、かえってリパーゼの活性を低下させるものであると本願出願当時当業者は思っていた。

(五) したがって、リパーゼ鹸化の際にラウリル硫酸塩を使用することの推考容易性に関する審決の前記判断は誤りであり、このことを前提として、第六引用例を引用し、本願発明において界面反応助長のためアルキル硫酸塩の各種を使用することは容易になし得るとした審決の判断も誤りである。

5  リパーゼとアルキル硫酸塩にカルボキシルエステラーゼを併用することの推考容易性について(取消事由(4))

審決は、カルボキシルエステラーゼもトリグリセリドを鹸化するもので、リパーゼと画然と区別しうるものでないことは、第三及び第四引用例に示されているようによく知られているとの理由で、「カルボキシルエステラーゼを界面活性剤の使用を伴うリパーゼと併用することは適宜なしうるものであって、この点に格別の困難性はない。」と判断している。

(一) 審決が右に引用した第三及び第四引用例はいずれも著者が同一で、後者の方が発行日が新しいから、前者に比し、より新しい技術情報を伝えているということができる。

第四引用例は第三引用例とは異なり「非特異的エステラーゼもある程度脂肪を分解し」と記載しているにすぎない。本願出願当時トリグリセリド(脂肪)をグリセリンまで分解することは公知ではなく、右記載の意味は、非特異的エステラーゼの一種であるカルボキシルエステラーゼはトリグリセリドをせいぜいモノグリセリドまでしか分解する作用を有するにすぎないことを示しているものと解すべきである。

(二) この点でリパーゼ特に本題発明の実施例で用いられているRaリパーゼがエマルジョン状のものは勿論、溶解したトリグリセリドを一〇〇パーセント鹸化しグリセリンまで分解する作用を有するのとは大いに異なるのである。換言すれば、カルボキシルエステラーゼだけでは脂肪をトリグリセリドの定量に適する程度に、また、定量を実用化できる時間内に分解することはできないのであり、したがって、リパーゼに代えてカルボキシルエステラーゼを多量に使用したからといって、リパーゼと同程度の分解が実用可能な時間内に実施できるかどうかは本願出願当時当業者にとっては不明であったのである。

(三) このように、カルボキシルエステラーゼがトリグリセリドをグリセリンまで鹸化する作用をしない以上、リパーゼとアルキル硫酸塩にカルボキシルエステラーゼを併用することの推考容易性に関する審決の判断は誤りである。

6  本願発明の作用効果の看過(取消事由(5))

本願発明は、リパーゼ、カルボキシルエステラーゼ及びアルキル硫酸塩の三者を併用することにより、当業者の予想できないような次のようなすぐれた結合的効果を達成した。

(一) リパーゼとしてRaリパーゼを使用した場合基本発明の場合よりRaリパーゼの使用量を五〇分の一に減少させることができる。

(二) エタノール性苛性カリを用いる鹸化下における公知方法に比べて一時間より多い測定時間は、二分の一時間より少なくすることができる。

(三) 反応温度を室温まで低下させることができる。

(四) 多くの滴定工程、鹸化バッチの加熱、中和及び沈殿の遠心分離の必要がない。化学的鹸化方法ではこのような面倒な操作を必要とする。

審決は本願発明のこのようなすぐれた効果を看過した。

第三  請求の原因の認否及び被告の主張

一  請求の原因一ないし三は認める。同四のうち2(四)は認め、その余は争う。

1  取消事由(1)について

本願明細書において、リパーゼの種類に関連する記述としては、「ある公知方法の欠点を除去するところの別の一公知方法で、その除去のための鹸化の際、リゾプス・アリツスからのリパーゼを使用した」点(三頁一〇ないし一三行)、「前記別の方法において、他のリパーゼ殊に公知のパンクレアス・リパーゼは不適当であることが判明した」点(三頁一三ないし一九行)、「リパーゼとしてはリゾプス・アリツスからのリパーゼが有利である」点(五頁一〇ないし一二行)、「有利な試薬組成物の範囲で特に好適な試薬の成分としてリゾプス・アリツスからのリパーゼを用いている」点(八頁一三ないし一五行)、実施例においてリゾプス・アリツスからのリパーゼを用いている点(以上明細書の引用箇所は出願当初のものによる)が認められる。しかるに、これらの記述は、いずれも「リパーゼ」をリゾプス・アリツスからのリパーゼ(Raリパーゼ)に限定して解釈すべきものであるとする記述ではない。また、その他の、リパーゼに関する記述には、何の限定的説明もされていない。したがって「リパーゼ」をRaリパーゼに限定して解釈することは妥当ではない。また、原告指摘の本願明細書中の「一公知方法」が原告内部において知られていたという意味であることは争わないが、具体的にこれが基本発明を指すとの点は争う。

仮に、本願発明の特許請求の範囲に記載された「リパーゼ」をRaリパーゼに限定して解釈すべきであるとすれば、Raリパーゼには特有の効果が認められるから、本願に対する審決の判断は妥当でなく、本願発明の進歩性は認める。

2  取消事由(2)について

第二引用例四〇三頁には脂肪酸の量の測定法が記載されているが、同四〇四頁八行ないし一〇行にはトリグリセリドを基質として水解産物であるグリセロール(グリセリン)又は遊離脂肪酸を測定することが記載されているので、この両記載を総合すれば、同引用例には審決が認定したように、リパーゼがトリグリセリドを鹸化する旨の記載があるものということができる。

本願発明の特許請求の範囲の記載から明らかなように、本願発明の被測定物質であるトリグリセリドにはなんら限定はないから、本願発明のトリグリセリドを血液中のトリグリセリドに限定した取消事由(2)の(三)の主張は失当である。また、同項の原告の主張のように第二引用例に示されたプロテインリパーゼが実用性がないとすれば、本願発明において使用されるリパーゼが限定されていない以上、その中には定量できないリパーゼを含むことになるから、原告の右主張による限り、本願発明には効果を奏しない場合をも包含することになってしまうのである。

3  取消事由(3)について

原告指摘に係る第二引用例の記載は例外的にリパーゼ活性を低下させる表面活性剤があることを示すにすぎず、第五引用例にRaリパーゼにラウリル硫酸塩を用いると活性を示すことが明記されている以上、ラウリル硫酸塩が右の例外的な活性剤でないことは明らかである。

4  取消事由(4)について

第四引用例の六三七頁下から六行目には「本書の第二巻第一章(注、第三引用例)に述べたように」と記載されていることからわかるように、同引用例は格別新しい技術情報を伝えたものではなく、その記載内容は第三引用例と格別異ったものではない。そして、第三引用例の一頁七行ないし八行には「Esteraseも脂肪を分解し得るし、Lipaseも簡単なエステルを分解し得る。いずれをよりよく分解し得るかという程度の差だけで本質的な差異は認められない。」と記載され、この記載によれば、原告主張のようにエステラーゼの場合トリグリセリドを分解するのはその一部分にすぎないということはない。

本願出願当時リパーゼを用いてトリグリセリドをグリセリンまで分解することは第二引用例四〇三頁、四〇四頁九行ないし一〇行、第三引用例二頁二一行ないし二二行に記載されているから、原告主張のようにトリグリセリドをグリセリンまで分解することが公知でなかったことを前提として、第四引用例に「ある程度脂肪を分解し」の記載を「モノグリセリドまである程度分解する」の意味に解することは誤りである。そして、第四引用例には、右の「ある程度脂肪を分解し」の記載に引続き「リパーゼも低級脂肪酸エステルを分解し得、化学的にも細部にわたって両者を明確に区別できるものではなく、本質的な差はないとされている。したがって組織化学的検索法においてもこれらを正確に区別できないのは当然であろう」との記載があり(六三七頁三六行ないし三八行)、この記載はリパーゼと非特異的エステラーゼであるカルボキシルエステラーゼとが区別できないことを第三引用例より一層強く示している。

仮に「或る程度分解する」との右記載を原告主張のように解したとしても、リパーゼとカルボキシルエステラーゼを併用したときに、その「ある程度」という量に応じて脂肪をモノグリセリドまで分解する量が増加するため、全体としての脂肪の分解量(それ自体の分解量とグリセリンの生成量)が増大することは明らかであるから、分解時にその分解能力が付加されることは容易に予測し得る。そして、カルボキシルエステラーゼの単位当たりの分解能力がリパーゼに比し低くても、多量に併用すれば十分な分解が得られることは明らかである。

5  取消事由(5)について

いずれも争う。

第四  証拠関係(省略)

理由

一  請求の原因一ないし三は当事者間に争いがない。

二  取消事由(1)について

1  請求の原因四2(四)の事実は当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第二号証の一(本願の特許願)、同号証の二(出願時の明細書)、同号証の三(昭和五二年二月一〇日付手続補正書)、同号証の四(同年八月一二日付手続補正書)によれば、右各補正に係る本願明細書の発明の詳細な説明の項には、(1)「本発明はグリセリドを鹸化し、かつこの際に遊離するグリセリンを測定することによってトリグリセリドを測定するための新規方法及び新規試薬に関する。」(一頁一三行ないし一六行)、(2)「公知方法によれば、差当りアルコール性アルカリでトリグリセリドを鹸化し、次いで生じるグリセリンを測定することによりこの測定を行なっている。」(二頁一行ないし三行)、(3)「この公知方法の重大な欠点は、エタノール性アルカリを用いる鹸化にある。この鹸化工程は、さもなければ個有の精密かつ容易に実施すべき方法を煩雑にする。それというのは、(イ)この鹸化はそれだけで約七〇度Cの温度で二〇~三〇分を必要であるからである。(ロ)引続き、グリセリン測定そのものを開始する以前に、中和しかつ遠心分離しなければならない。」(三頁二行ないし九行)、(4)「この欠点は、一公知方法(これが原告内部に知られていた方法という意味であることは当事者間に争いがない。)で、トリグリセリドの酵素的鹸化により除去され、この際、リゾプス・アリツス(Rhizopus arrhizus)からのリパーゼを使用した。この方法で、水性緩衝液中で、トリグリセリドを許容し得る時間内に完全に脂肪酸及びグリセリンに分解することのできるリパーゼを発見することができたことは意想外のことであった。他のリパーゼ殊に公知のパンクレアス―リパーゼは不適当であることが判明した。」(三頁一〇行ないし一九行)、(5)「しかしながら、この酵素的分解の欠点は、鹸化になおかなり長い時間がかかり、更に、著るしい量の非常に高価な酵素を必要とすることにある。使用可能な反応時間を得るためには、一試験当り酵素約一mgが必要である。更に、反応時間は三〇分を越え、従って殊に屡々試験される場合の機械的な実験室試験にとっては適正が低い。最後に、遊離した脂肪酸はカルシウムイオン及びマグネシウムイオンと不溶性石鹸を形成し、これが再び混濁させ、遠心しない場合にはこれにより測定結果の誤差を生ぜしめる。」(三頁二〇行ないし四頁一〇行)、(6)「従って、本発明の目的はこれらの欠点を除き、酵素的鹸化によるトリグリセリドの測定法を得ることにあり、この方法では、必要量のリパーゼ量並びに必要な時間消費は著るしく減少させられ、更に、沈でんする石けんを分離する必要性も除かれる。」(四頁一一行ないし一六行)、(7)「この目的は、本発明により、リパーゼを用いる酵素的鹸化及び遊離したグリセリンの測定によるトリグリセリドの測定法により解決され、この際鹸化は、カルボキシルエステラーゼ及びアルキル基中の炭素原子数一〇~一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩の存在で行なう。」(四頁一七行ないし五頁三行)、(8)「リパーゼとしては、リゾプス・アリツスからのリパーゼが有利である。」(五頁一一行ないし一二行)、(9)「本発明の方法を実施するための本発明の試薬はグリセリンの検出用の系及び付加的にリパーゼ、カルボキシルエステラーゼ、アルキル基中の炭素原子数一〇~一五のアルカリ金属―又はアルカリ土類金属―アルキル硫酸塩及び場合により血清アルプミンからなる。」(七頁一八行ないし八頁四行)、(10)「有利な試薬組成物の範囲で、特に好適な試薬は次のものよりなる。リゾプス・アリツスからのリパーゼ〇・一~一〇・〇mg/ml」(八頁一三行ないし一五行)との記載があることが認められる(以下、右の各記載を「(1)(2)......(10)」の記載という。)。

2  前記1の事実は、(2)記載のアルコール性アルカリを用いるトリグリセリド測定法では、(3)に記載されているように(イ)鹸化作用だけに二〇~三〇分を必要とするうえ、(ロ)鹸化後更に測定以前に抽出液を中和等の処理をする必要があり(成立に争いのない甲第三号証(第一引用例)によれば、右の処理作業は複雑で時間を要することが認められる。)、鹸化開始後測定完了まで長時間を要する欠点があったが、(4)記載のように鹸化後の処理作業を要しない酵素であるRaリパーゼによりトリグリセリドの鹸化を行ったところ、これを許容し得る時間内に、完全に脂肪酸とグリセリンに分解することができ、また、測定を完了することができたこと、Raリパーゼにより右のような効果を得たことは右の方法の発明者にとっても予想外のことであり、公知のパンクレアス―リパーゼを含め他のリパーゼには、トリグリセリドを一部鹸化するものもあるが、いずれもRaリパーゼのような鹸化時間、鹸化能力を示さず、トリグリセリドの測定には不適当であることが実験により判明したこと、しかし、(5)記載のように、(4)記載のRaリパーゼを用いる測定法ではなお鹸化時間を要し、更にRaリパーゼの消費量が多く、加えて測定誤差が生ずる等の欠点があったため、(6)、(7)記載のように、トリグリセリド鹸化に有効なRaリパーゼの使用を前提としてこれらの欠点を除く目的で、その使用量を少なくするとともに、これと他の酵素(カルボキシルエステラーゼ)及び活性剤(アルキル硫酸塩)の存在下で鹸化を行う本願発明がされるに至ったものであることを示している。

3  そこで、本願発明の特許請求の範囲中の基本構成に記載された「リパーゼ」の意義について検討する。

(一)  (4)記載の方法はRaリパーゼによるトリグリセリドの酵素的鹸化により遊離するグリセリンを測定するトリグリセリドの測定方法であるところ、これと基本発明の構成とが実質的に同一であることは前叙のとおり当事者間に争いがない。しかして、前記のとおり、本願明細書の発明の詳細な説明の項による限り、本願発明は(4)記載の測定方法の改良を目的とするものであるから、本願発明はRaリパーゼを使用することを前提とするものということができる。

(二)  (4)の記載によれば、本願の発明者はRaリパーゼ以外のリパーゼはRaリパーゼのように許容される時間内にトリグリセリドを完全に分解する能力がなく、遊離グリセリンによるトリグリセリドの測定には不適当であると認識しているものと認められるから、かかる発明者が右のようなトリグリセリド測定に不適当なリパーゼをも含める意味で本願発明の特許請求の範囲中の基本構成に広く「リパーゼ」と記載したものと解することはできない。

(三)  一方、前記1に引用した本願明細書の発明の詳細な説明の項に記載された「リパーゼ」の文言を個別的にみると、(4)の記載中の〈1〉、〈2〉のリパーゼがRaリパーゼを指し、〈3〉〈4〉のリパーゼがRaリパーゼ以外のリパーゼ(〈4〉はパンクレアス―リパーゼ)を指すことは文理的に明らかであり、(5)の記載中の「非常に高価な酵素」もRaリパーゼを意味するものであることは容易に理解できる。(6)、(7)の記載は(4)記載のRaリパーゼによる鹸化の改良に関するものであるから、各記載中の「リパーゼ」もRaリパーゼを指すものということができ、(9)の記載中のリパーゼも、右記載箇所までの本願発明のリパーゼに関する記述からみてRaリパーゼを指すものと解せられる。(8)及び(10)の記載はRaリパーゼが基本構成においてトリグリセリド鹸化に有効であることを強調したもので、これらの記載をいくつかある有効なリパーゼのうちのRaリパーゼを選択した趣旨と解することは、他の有効なリパーゼの存在が具体的に示されていない以上相当ではない。

(四)  そうであれば、前記1に引用した本願明細書の発明の詳細の説明の項の記載により(4)記載の測定方法の改良として技術的に裏付けられているのは、Raリパーゼを使用するものだけであり、前掲甲第二号証の一ないし四によれば、本願明細書に記載された実施例もRaリパーゼを使用したものだけが示されていることが認められる。

(五)  以上に述べたところによれば、本願発明の特許請求の範囲中の基本構成に記載された「リパーゼ」には文言上何らの限定はないが、それはRaリパーゼを意味するものと解するのが相当である。

4  第一引用例の記載内容及び第五引用例にリパーゼとしてリゾプス・アルヒズスからのリパーゼ(Raリパーゼ)があることが記載されていることは当事者間に争いがなく、成立に争いのない甲第四号証(第二引用例)によれば、第二引用例にはリパーゼがトリグリセリドを加水分解することが記載されていることが認められ、前記当事者間に争いのない審決理由の要点によれば、審決は前記第一、第二及び第五引用例からRaリパーゼを使用する場合を含む本願発明の基本構成を容易に想到し得るものであると判断したことが明らかである。

しかし、Raリパーゼの使用に限定された本願発明の基本構成が基本発明と実質的に同一であり、基本発明が原告主張の経緯で昭和五九年一二月二〇日特許すべき旨の審決を受けたことは当事者間に争いがない(基本発明が特許すべき旨の審決を受けるに至ったのは、前掲甲第二号証の一ないし三、成立に争いのない甲第一二、第一三号証によれば、Raリパーゼの鹸化能力が他のリパーゼに比し、格別にすぐれていたためであると推認される。)。

そうであれば、審決の前記判断は右特許すべき旨の審決と矛盾することになるところ、被告も本願発明の基本構成がRaリパーゼの使用に限定された場合には、Raリパーゼに特有の効果があることを理由に基本構成の進歩性を認め、審決の前記判断が誤りであることを争っていない。

5  以上のとおりであるから、審決は本願発明の基本構成部分の解釈を誤った結果、同部分の進歩性を否定したものであり、取消事由(1)は理由がある。そして、右の誤りは審決の結論に影響を及ぼすことが明らかであるから、その余の取消事由について判断するまでもなく、審決は違法として取消を免れない。

三  よって、原告の本訴請求を正当として認容し、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

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